美術史家 山根郁信

 

 

ひとつの流派様式、あるいは地域様式という枠を超えてフランスの工芸史に革新的な役割を果たしたナンシー派(産業芸術地方同盟Alliance Provinciale des Industries d’Art )は、正式には1901年2月に組織された装飾美術家と製造業者の共同組合であり、郷土の手工業振興、産業の促進、産業芸術の普及、芸術教育の環境構築などがその主たる活動目的であった。彼らの創作理念の中核をなしたのは、徹底した自然主義、言い換えれば自然の形態とその象徴性を専ら着想源とする原理であった。それはナンシー派の規約序文にリーダーのエミール・ガレ(1846-1904)自身が次のように示した通りである。

 

 

 

「ナンシー派は、生物と生命の直接の観察から想を得た装飾の美しさが持つ特性と利点に光をあてようとするものである。それは現代のロレーヌの師たちが、その作品や著作の貢献によって、さらには自然に基づいた現代家具様式、すなわち現代の自然科学の知見に合わせて現実の光景を反映させた我々の時代の様式の貢献によって、初めてその価値を認めさせた、実り豊かで合理的な原理である。」

 

 

 

自然主義は、バロックやロカイユの歴史様式のなかに美意識として、ナンシー派の誕生以前から存在していた。しかし、装飾美術においては、それは因習的で定式化された生気のないものとなっていた。絵画や彫刻と同じように、工芸が観者に感動を呼び起こす存在であることを早くから認識していたナンシー派の装飾美術家たち、とりわけエミール・ガレは、作品に生命力を与え、現代的で斬新な造形を追求しようとしたのである。

 

 

 

こうした彼らの創意は手工業、つまり人の手によって作品あるいは商品として具体化されたわけだが、ナンシー派の規約序文に「同盟(ナンシー派)がもっとも緊急な課題と考えるのは、職人の欠乏を防ぐことと、さまざまな職種におけるスペシャリストの採用を確保すること」であり、そのために「組織は職人や職工の仕事に対する保護者の偏見と闘う」と記されていることは興味深い。優れたデザインを実作に至らしめるには、何よりも優れた職人の手が不可欠であることが強く実感されていたのである。

 

 

 

デザイナーとアルティザンの共同体とも言うべきナンシー派の理事会は以下の36名によって構成されていた。

 

会長エミール・ガレEmile Gallé、

副会長アントナン・ドーム(会計兼任) Antonin Daum、

ルイ・マジョレルLouis Majorelle (家具作家)、

ウージェーヌ・ヴァランEugène Vallin (家具作家)、

シャルル・アンドレCharles André (建築家、元ナンシー装飾美術協会会長)、

エミール・アンドレEmile André (建築家)、

アンリ・ベルジェHenri Bergé (東部地方職業学校装飾美術部教授)、

オスカー・ベルジェ=ルヴローOscar Berger-Levrault (美術印刷業者)、

アルベール・ベルジュレAlbert Bergeret (美術印刷業者)、

シャルル=デジレ・ブールゴンCharles-Désiré Bourgon (県委嘱建築家、東部地方建築家協会会長)、

エルネスト・ビュッシエールErnest Bussière (彫刻家)、

ポール・シャルボニエPaul Charbonnier (歴史的建造物建築家)、

アルフレッド・フィノAlfred Finot (彫刻家)、

エミール・フリアンEmile Friant (画家)、

シャルル・フリードリックCharles Fridrich (メゾン・ダール[1]のディレクター、染織装飾家)、

カミーユ・ゴーティエCamille Gauthier (家具作家)、

エミール・グティエール=ヴェルノルEmile Goutière-Vernolle (「ロレーヌ・アルティスト」誌ディレクター)、

ジャック・グリュベールJacques Gruber (美術学校装飾美術部教授)、

ルイ・ガンゴーLouis Guingot (装飾家)、

アンリ・ギュトンHenri Gutton (建築装飾家)、

ロベール・エルボルンRobert Herborn (東部地方職業学校校長)、

ルイ・エストーLouis Hestaux (装飾画家)、

アンドレ・コフェAndré Kauffer (宝飾家)、

ジュール・ラルシェJules Larcher (画家)、

ジュール・ロンバール Jules Lombard (リセのデッサン教授)[2] 、

アンリ・モローHenri Morot (美術金物製造者)、

エミール・ニコラEmile Nicolas (美術批評家)、

ヴィクトール・プルーヴェVictor Prouvé (画家・彫刻家・装飾家)、

ポール・ロワイエPaul Royer (画家)、

ガストン・サーヴGaston Save (画家、版画家)、

ジョルジュ=レオン・シュヴァルツGeorges-Léon Schwartz (家具作家)、

ポール・スーリオPaul Souriau (ナンシー大学教授、美術批評家)、

ロベール・スタネルRobert Steinheil (美術印刷業者)、

ミシェル・ティリアMichel Thiria (ガラスの絵付師 [3])、

リュシアン・ヴァイセンビュルガー(ヴェサンビュルジェ)Lucien Weissenburger (建築家)、

リュシアン・ヴィーナーLucien Wiener (ロレーヌ美術館学芸員)

 

 

 

ナンシー派入会申請書

  年会費は6フラン。本部はガレンヌ通2番のガレ自邸。

1900年以降ナンシーの地番変更に伴い、ガレ自邸のガレンヌ通2番は4番に変更されたが、

草稿は1900年作成なので、旧地番のまま印刷されたと推察される。

個人蔵  Document Yamane

 

 

このようなナンシー派の創作活動の大きな起爆剤となったのは、普仏戦争という政治的出来事とジャポニスムという社会現象、あるいは文化的環境であった。普仏戦争での敗戦は、祖国を失ったアルザスやロレーヌの人々の愛国心と郷土復興への情熱を鼓舞し、それが経済活動や芸術的創作活動の原動力となった。「オプタンoptant (選択者)」という歴史的なフランス語が物語るように、ドイツ国民になるよりフランス国民でいることを選んだ人々のナンシーへの移住による急激な人口増加(別表1)は、やがてこの街に大きな経済的繁栄をもたらすことになる。ナンシー派の重要な庇護者(パトロン)となるコルバン家の創設したレユニ百貨店が遂げた急成長も、畢竟(ひっきょう)は仇敵ドイツへの祖国敗北によって招来されたアイロニカルな歴史的帰趨(きすう)であった。

 

 

 

レユニ百貨店2代目社主ウージェーヌ・コルバン

ナンシー派のアーティストたちの実質的庇護者であった。

現ナンシー派美術館はウージェーヌ・コルバンの旧宅。

画像典拠 Philippe Bouton-Corbin, Eugène Corbin Collectionneur et mécène

de l’Ecole de Nancy, Association des amis du musée de l’Ecole de Nancy, 2002.

 

 

 

 

レユニ百貨店ファサード(ポストカード)

建物の設計はリュシアン・ヴァイセンビュルガー(ヴェッサンビュルジェ)。

多くのナンシー派のアーティストたちが装飾デザインに携わった。個人蔵

 

 

 

レユニ百貨店のエントランス

ヴィクトール・ポワレル通とサン=ジャン通の角にあったエントランス。

画像典拠 Nancy 1900, Rayonnement de l’Art Nouveau, Gérard Klopp, 1989.

 

 

 

 

 

1916年1月16日朝のドイツ軍空爆によって破壊されたレユニ百貨店

画像典拠 Art Nouveau l’Ecole de Nancy, Denoël et Serpenoise, 1987.

 

 

 

 

主要参考文献

Alliance Provinciale des Industries d’art, Ecole de Nancy Statuts, Nancy, Imprimerie A. Barbier et F. Paulin, 1901.

Art Nouveau L’Ecole de Nancy, Denoël, 1987.

 

 

別表1 普仏戦争後のナンシーとムルト=エ=モゼルの人口推移

ナンシー ムルト=エ=モゼル
1871 48,478(人)    -
1872 52,978  365,137
1877 63,572  394,609
1881 73,225  419,317
1886 79,091 431,693
1891 86,959   444,150
1896 96,148 466,417
1901 94,461   484,722
1904 100,646      -

 

典拠:Chambre de Commerce de Meurthe-et-Moselle Cinquantenaire 1855-1905, Imprimerie Berger-Levrault & Cie, 1905, p.89.

 

(註)

ムルト=エ=モゼルは、1871年にムルト県(Meurthe)とモゼル県(Moselle)の一部が普仏戦争終結後のフランクフルト条約によりドイツ領となったため、2県のうちフランスに残された領土が合併してできた県。ナンシーはムルト=エ=モゼル県の県庁所在地だった。旧ロレーヌ地域圏には、モゼル県、ムルト=エ=モゼル県、ムーズ県(Meuse)、ヴォージュ県(Vosges)の4県があった。旧ロレーヌ地域圏は現在グラン・テスト地域圏Grand Estに編入されている。かつてのアルザス地域圏、シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏、ロレーヌ地域圏の三つの地域圏が統合され、2016年にグラン・テスト地域圏となった。フランスの最も大きな行政区画は「地域圏région」で、「州」に相当する。日本の出版物では「地方」とされているものが多い。各地域圏は、さらに幾つかの「県 département」からなる。「県の下位区分が「郡 arrondissement」で、その下位区分が「小郡 canton」、さらにその下が「コミューヌcommune」。

 

 

 

普仏戦争のフランス兵

エミール・ガレは第23戦闘歩兵部隊に入隊した。

画像典拠 Brown University Providence,

RI (フランス版ウィキペディアより転載) Wikipedia®(France)

 

 

 

普仏戦争後の領土

破線(---)がフランクフルト条約後のフランスとドイツの国境。

画像典拠:Emile Gallé, Collections privées Céramique Verrerie Mobilier,

Musée Angladon (Avignon), catalogue de l’exposition

du 14 juin au 20 octobre 2002.

 

 

[1] 1900年にシャルル・フリードリックがナンシーのスタニスラス通38番にオープンしたギャラリー。ジークフリート(サミュエル)・ビングが1895年にパリでオープンしたアール・ヌーヴォーの店に倣ったもの。

[2] フランス版ウィキペディアによれば、ジュール・ロンバールはムーズ県の採石場所有者maître de carrièreとある。

[3] ミシェル・ティリアは主にステンドグラスの装飾を手掛けている。