美術史家 山根郁信

 

 

本稿は 2020 年 1 月 2 日~3 月 8 日に茨城県陶芸美術館で開催された「ガレの陶芸 世紀末
の煌めき 昆虫・植物・ジャポニスム」展図録に掲載されたものである。

 

 

 

ガラス・陶器・木工の三分野で三世代に亘って創作活動が展開されたその豊富で多様な作品制作の実態については今日なお多くの誤った解釈が巷間に流布している。それは作品の帰属性、制作年代、位置づけ、評価などとも密接に結びついており、極めて重要な問題を 孕んでいる。本稿では今一度「ガレ」の名を冠した作品たちがどこで、どのように生まれたのかを振り返っておこう。

ガレの作品は、ガラスであれ、陶器であれ、ひとつの場所でつくられたものではない。それはエミール・ガレの父シャルル・ガレ(1818-1902)の代でもそうであった。

 

 

 

父シャルル・ガレの時代

パリのポトミエという名の磁器工場主のもとで絵付けの修業をつみ、シャンティイーにあった磁器製作所ブーゴン・エ・シャロ商会の出張販売代理人であった 1父シャルル・ガレは、1854 年以来ナポレオン三世のチュイルリー、フォンテーヌブロー、コンピエーニュ、サン=クルー、ビアリッツといった宮殿に食器を納め、1866 年にナポレオン三世御用商人の勅許状を得ていた。また前年 1865年のボルドー博覧会では陶芸部門で銀メダルを、1867 年のパリ万博では第 16部門(クリスタル・ガラス、高級ガラス、ステンドグラス)で佳作を受賞している。「私の父は自らのガラス器や磁器 porcelaines のうえに田園風のエチュード、イネ科植物や花々の咲きほこる牧草地を再現していた。私は父のこの伝統方式を土やガラスの装飾とフォルムによって発展させることになった 2」とエミール・ガレは後に父の影響を振り返っている。

 

 

 

サン=クレマン製陶所

ナンシーの南東約 20km にあったサン=クレマン製陶所は 1758 年に創設された古くからのファイアンス製造所であった。父シャルルの言を借りると 1860年代初頭「衰退の一途」を辿っていたこの製陶所で、ガレ家の陶器が製造され始めた正確な年は不明だが、1864 年にはシャルル・ガレとの共同作業が始まっていたのは確かである。ガレ家はここで「ブラン 3」を制作させ、それらに絵付けを施した完成品を販売していた。絵付け作業はシャルル・ガレ自らが雇い入れた画工たちによって、サン=クレマン製陶所内に設けられたガレ家専用の工房(アトリエ)で行われていた。しかし、1876-77 年頃この製陶所とガレ父子は決裂することになる。衝突の原因は、加飾アトリエの運営を巡ってサン=クレマン製陶所がその主導権を取り戻そうとしたことであった。また、ガレが考案した意匠に「サン=クレマン Saint-Clement」だけのサインを入れた陶器をこの製陶所が製造販売していた 4ことも理由のひとつと考えられる。(サン=クレマンで制作されたガレの作品に「Gallé」と「Saint-Clement」双方のサインが入れられるのが慣例であった。)

 

 

 

リュネヴィルの製陶所ケレール・エ・ゲラン

ケレールとゲランを社主とするリュネヴィルの製陶所との共同作業がいつ始まったのかについても詳らかではないが、恐らくサン=クレマン製陶所と同じ時期に開始されたと考えられる。1865 年にはすでに発注が行なわれていたようだ。父シャルルが同年サン=クレマン製陶所に宛てた書簡のなかで、リュネヴィルの製陶所で制作させた「ブラン」をサン=クレマンで着色する意向を伝えている。だが、この製陶所との関係も 1879 年あたりには途絶えることになる。ガレ家はこの年彼らを意匠盗用の嫌疑でリュネヴィル民事裁判所に訴えている訴訟の対象となった具体的な作品はエミール・ガレがデザインした「植物標本Herbier」と「日本の夜 Nuit au Japon」であった。しかし、1880 年にガレ家の訴えは棄却され、裁判費用の支払いを命じられている。

 

 

 

トゥールのベルヴュー

1756 年に設立されたベルヴューの製陶所とは 1870 年代初頭に取引が始まっている。ここでは絵付け作業は行なわれず、「ブラン」のみが制作されガレ家に納入されていた。「ブラン」の供給がいつ頃終了したのかは不詳である。

 

 

 

ラオン・レタップの製陶所 アデルフ・ミュレール

ラオン・レタップにあった製陶所の社主アデルフ・ミュレール(1833-1900)との関係もいつ始まったのかは定かではないが、1874 年ごろには共同作業が開始されていたようだ。サン=クレマン製陶所との決別以降、このラオン・レタップがガレの陶器の主要な製造基地となっていく。ここでは「ブラン」製造も絵付けも行なわれていた。アデルフ・ミュレールとの関係はミュレールが閉窯する1898 年まで続いた。

 

 

 

クレールフォンテーヌ

ナンシーの南約 140km にあったクレールフォンテーヌの製陶所でもガレのブランが製造されていた。ここは 18 世紀末に修道院の建物内に設営されたファイアンスの製造所であった。ガレ家との共同作業はサン=クレマン製陶所と決裂した後に始まっている。ここでは「ブラン」のみがガレ家に供給され、絵付けなどの加飾はラオン・レタップやナンシーで施されていた。主に折り紙の鳥(ココット)、灰皿、インク壺といった小品の「ブラン」がここで製造されている。しかし、その関係も長くは続かず、1879 年にやはり意匠盗用の問題でガレ家はこの製陶所を訴えている。彼らはエミール・ガレがデザインした鋳型を用いて製造した陶器に彼らのアトリエで装飾を加えて販売していた。1880 年にブサンソン裁判所はクレールフォンテーヌの製陶所に有罪判決を下している。

 

 

 

マイゼンタール

以前はガラスのブラン制作とエナメル絵付けだけが行われていたと考えられていたマイゼンタール(ナンシーから約 100km 北東の村落)のブルグン・シュヴェーラー社内でも、その制作規模は不明だが、1889 年から 1892 年まで陶器のエナメル絵付けが行われていたことが判明している。ファイアンスの絵付けを担当していたのはガラス部門のデジレ・クリスチャンの弟フランソワ・クリスチャンであった。

 

 

 

ナンシー

ガレ家は 1873 年にファイアンスリー通りからガレンヌ通 2 番地に住居を移しているが、その新居の庭にも小さな 工房(アトリエ)が設営された。(この工房は後にガレ家の庭師の詰め所になった。)また、ナンシー在住のジュール・ドミニク・ティエリーやエメ・ユリオ(後にガレ商会へ入社)といった独立した画工に絵付けを委託することもあった。

 

1885 年にエミール・ガレはナンシーのガレンヌ通り 27 番地に自らの家具工房を建設したが、同じ年、この工場内に陶器の焼成窯を設営している。こうして初めて陶器の一貫制作体制が自らの工場で整うことになる。つまり、ガレの自社工場で陶器の「ブラン」の製造が開始されるのはようやく 1885 年になってからのことであった。ただし、ラオン・レタップのアデルフ・ミュレールの製陶所でも並行して「ブラン」の製造と絵付けは行なわれていた。1898 年にミュレールが製陶所を閉鎖するまで共同作業が続いたことは既述の通りである。

 

 

            1894 年のナンシーの主要工場を示す地図に掲載されたガレの工場のイラスト

 

 

1876 年から 1879 年の間、鋳型製造をパリにアトリエを構えていたシャルル・リゴロとアンリ・ジローという二人の人物に依頼していた。

 

 

 

「発行元(エディトゥール)」という業態

次に何故ガレの制作場所がこのように分散されたのかという点に触れておこう。
1860-70 年代、ガレ父子が使っていた名刺や 用箋(レターヘッド)に「芸術的な陶器とガラスの発行元Éditeur de Fayences et de Verreries Artistiques」と印字されていることからも明らかなように、彼らは自らを「発行元」と称していた。「発行元」とは当時の陶磁器やガラス器の製造業界では、本格的な製造工場を持たず、自らの意匠を外注制作して企画販売をする卸売業者のことを言い、パリには複数の同業者がいた。例えば、フランソワ=ウジェーヌ・ルソー(1827-1890) のような工芸家もその一人で、ルソーは 1878 年のパリ万博組織委員会に提出した出展許可申請書のなかで、この「発行元(発行元業者)marchands-éditeurs」の役割を明快に記している。

 

 

「ほぼすべての産業分野で活躍する発行元業者の類も、とりわけパリを中心に存在します。(…)彼らは自ら作品意匠を考案、デザインし、自らの鋳型と自らのモデルを使って、ほとんど未加工の素材を得るためだけに狭義の 工場生産(ファブリカシオン)を利用し、その後は自らの工房やフリーの職人の協力のもとで、作品を完成させます。私もこの発行元業者のひとりであり(…)。発行元業者たちは、民間と常に接触を持ち、そこから反響を汲み上げ、異論の余地なく有益な働きをしており、その多くは、狭義の 工場生産を応用芸術のためにたえず活用している先駆者(イニシアトゥール)たちであると確信します。」5

こうした「発行元」の営業形態は父シャルルから息子エミールにそのまま継承された。つまり、ガレのデザインした器形 6に基づいて外注工場が「ブラン」の 窯焼きを行い、ガレ父子の管理下にあった 工房で、彼らがデザインした様々な装飾が「ブラン」に加えられ、作品あるいは商品が完成したのである。「ブラン」を製造するには、ガラスも陶器も、高温焼成の炉が備わった本格的な工場設備が必要だが、出来上がった「ブラン」に様々な装飾を施す加飾作業は、比較的簡素なムーフル窯(低温焼成の窯)やクラヴュールの工具などがあれば可能である。つまり、「ブラン」の製造には多額の設備投資が必要だが、絵付などの加飾の設備には、さほど大きな開設資金は伴わない。「発行元」は、こうしたリスク回避のための、いわば近代型分業システムから生じた業態でもあった。

 

こうした制作の実態については、1980 年代我国で出版されたガレに関する著書にさまざまな誤りが見受けられる。エミール・ガレが外注先と“密約”を結び、ガラスの量産品を密かに製造委託していたとする誤解もそのひとつである。外部への情報 漏洩を防ぐべく、ガレが外注先との契約書にしたためた対象は、専ら自らが開発した新しいガラスの技術についてであり、自社の生産体制ではなかった。7それは名刺や よ用箋に自ら「発行元」と称しているこからも明らかであり、1878 年パリ万博の第 20部門(陶芸)の審査委員会に提出した出展解説書のなかでもサン=クレマンを始めとする外注先の具体的な製陶所名までガレが記している事実もそれを証している。

 

 

 

 

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1 Philippe Thiébaut, « Gallé, céramiste », Catalogue de l’exposition Gallé, pp.77 et 79, Musée du Luxembourg,
RMN, 1985-1986.
2 Emile Gallé, Ecrits pour l’art, Paris, 1908, « Le Mobilier contemporain orné d’après la nature » (1900), p-239.
3 釉薬や絵付などの装飾を施していない成形後の素焼きの陶器(半製品)、また、カット、グラヴュール、エナメル
彩色といった装飾を加える前の、熱成形・徐冷後の半加工ガラスのことを、フランスでは共通して「ブラン blanc(=
無色もの)」と呼ぶ。
4 フィリップ・ティエボー、フランソワ・ル・タコン、山根郁信共著『エミール・ガレ その陶芸とジャポニスム』平凡社、
2003 年、56 頁。
5 原文典拠: Paris, Archives nationales. Cf. 展覧会図録『フランスが夢見た日本 ― 陶
器に写した北斎、広重』(東京国立博物館/日本経済新聞社、2008 年)所載、フィリップ・テ
ィエボー「19 世紀後半のフランスにおける食卓芸術とジャポニスム ― フランソワ=ウ
ジェーヌ・ルソーの場合」(122 頁)。
6 必ずしもすべてガレ父子がデザインした器形だけとは限らず、例えばサン=クレマン製陶所では
古くからそこで使われていたモールド(鋳型)を利用する場合も当初は多かった。特に父シャルル
の時代はそうであった。
7 エミール・ガレ、ニコラ・マチュー・ブルグン(1825-1889)、デジレ・クリスチャンとの間で結ばれた
三者協定(1885 年)には次のようにある。「(デジレ・クリスチャンは)新開発の技法もしくは新改良の
エナメル、その他のガラス加飾、ムーフル窯の焼成などを第三者に用いないことを両者に約束す
る。(・・・)上記の者たちは、工場の外交員とともに、ガレ氏の製品に関して、秘密を絶対に厳守す
る」。Cf. 『アール・ヌーヴォーアール・デコ VII 知られざるエミール・ガレ』(平凡社別冊太陽、2000
年)所収、フランソワ・ル・タコン他「エミール・ガレとマイゼンタール」(22 頁)。