美術史家 山根郁信

 

 

本稿は『決定版 エミール・ガレのガラス』(山根郁信編、2019 年、河出書房新社)に同タイトルで寄稿した記事である。

 

 

『マガザン・ピトレスク Le Magasin Pittoresque』誌は、1830 年代に英国で普及していた大衆紙に倣って、エドゥアール・

シャルトン Édouard Charton (1807-1890)が、1833 年 2 月にフランスで創刊した月刊誌である。シャルトンの刊行目的の
ひとつは、これを大衆の教育に供することにあった。そのため多くの挿画を取り入れた視覚的な誌面構成が講じられ、それが

この雑誌を大部の流通へと導く要因の一つとなった。同誌は 1937 年まで続刊されている。

 

 

1861 年 2 月号『マガザン・ピトレスク』誌

 

 

エミール・ガレの父シャルル・ガレはこの『マガザン・ピトレスク』誌を定期購読しており、若きガレもそれを愛読していた(1)。

後にペルドリーゼ・ガレ夫人、つまりガレの二女リュシールがナンシー派美術館初代館長フランソワーズ=テレーズ・シャル

パンティエ Françoise-Thérèse Charpentier (1916-2003) 氏に語ったところによれば、彼女の祖父シャルル・ガレはそれらの全冊を

彼の事務所の棚に並べていたという。シャルル・ガレが併せて定期購読していた『ラール・プル・トゥス L’art pour tous』誌とともに、これらの雑誌の豊富な図版や記事は、若きガレの知的好奇心を大いに刺激し、しばしば作品の霊感源にもなっている。さらに、エミール・ガレが「シーボルト Shiebold」という名前を初めて目にしたのも、恐らくこの『マガザン・ピトレスク』誌においてであろう。1850 年代から 1870年代にかけて、同誌にはシーボルトの著作から転載された図版が、“Shiebold”という 典拠名(クレジット)を伴って、数多く収録されている(2)。

 

 

さて、『マガザン・ピトレスク』誌が日本のことを報じた数多くの記事のひとつに、パリの植物園 jardin des Plantes de Paris で公開された日本のオオサンショウウオに関する記述がある。それは 1861 年 2 月号に掲載された記事で、その邦訳と図版は過去の拙稿(3)でも紹介した。そのなかで、筆者は「パリの植物園で公開されたオオサンショウウオは、恐らくシーボルトが日本から(オランダへ)生きたまま持ち帰ったもので、これがパリで巡回公開されたものと思われる」と解説を添えたが、その後の調査でこれが誤りであることが判明した。

 

 

1826 年 3 月(旧暦 2 月)にシーボルトは恐らく三重県内でオオサンショウウオを手に入れている(4)。 それは 1830 年にオランダへ運ばれて、アムステルダムのアルティス動物園 ARTIS で飼育され、1881 年 6 月まで生きいていた。体長104cm(1.14m とも)までに成長したとある。52 年間の飼育記録はギネスにも認定されている(5)。

 

 

しかし、『マガザン・ピトレスク』誌が報じた、パリの植物園(自然史博物館Muséum d’histoire naturelle)の生きたオオサンショウウオは、以下の 1859 年 11月 19 日付『デバ』紙(6)の記事から、シーボルトが日本から持ち帰ってアルティス動物園で飼育されていた個体とは別のものであることが判る。

 

 

「オランダ領東インド(7)駐在フランス総領事ド・コドリカ氏 M. de Codrika, consulgénérale de France aux Indes néerlandaises が、駐日オランダ王立海軍の軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールト氏 Pompe van Meerdervoot の依頼により、日本のオオサンショウウオ Grande Salamandre japonaise (Salamandra maxima)と称される巨大な両生類のとても素晴らしい見本を寄贈として発送させた。(…)今日の迅速な交通手段のお陰で、2 ヶ月間でバタヴィアからパリに到着した。我らのサンショウウオは、運搬途上で少し弱っている恐れもあるが、今は良好な環境に置かれていて、オランダと同じように、注意深く継続的な観察下のもとで、その発育を見守ることができるだろう。体長は目下 79 センチだが、1メートルを越えると我々はみている。それはあらゆる点でシュレーゲル氏(8)が『日本動物誌 Fauna du Japon』のなかに載せた記述とまったく完全に一致している。」(拙訳)

 

 

ポンペ・ファン・メーデルフォート Johannes Lijdius Catharinus Pompe vanMeerdervoort (1829-1908) は(9)、1857 年(安政 4 年)に来日し、日本で医学を教えたブルッヘ Brugge(ブルージュ)生まれの軍医である。1861 年(文久 1 年)に創設された日本初の近代的西洋式病院である長崎養生所はポンペの建言によるものとされる。1862 年(文久 2 年)まで滞在し、その後オランダに戻った。ポンペが 1887 年(明治 20 年)にドイツ留学中の森鴎外に出会って会話を交えたことはよく知られている。

 

 

画像典拠:『日本医事新報』1957 年 1739 号(日本医事新報社刊)所載「畫報 ポンペ先生
とその弟子」 北村精一(p25~28)

 

 

オオサンショウウオに話しを戻すと、その個体がパリ自然史博物館に到着したのは 1859 年 11 月 11 日である(10)。 1861 年の総合年鑑(11)に、1860 年 1 月の時点で、同博物館の爬虫類飼育場にいた爬虫類動物のリストが掲載されており、そこにこのオオサンショウウオが記録されている。

 

 

1897 年のパリ自然史博物館の爬虫類動物飼育場のガイドブック(12)に「オオサンショウウオの寿命はとても長く、実際、博物館が所有する 1 匹はそこに 1859 年に到着したもので、その大きさから判断して、すでに年を取っていた」とある。この個体は 1897 年 6 月 15 日まで生きていた。1897 年 6 月 29 日の自然史博物館会報(13)に以下のように記録されている。

 

 

「ファン・メーデルフォートによって 1855 年(ママ) 11 月 11 日に寄贈された日本のオオサンショウウオ(Sieboldia maxima, Schlegel)は 6 月 15 日に死んだ。結果として、37 年と 7 ヶ月の飼育期間となった。(…) 博物館の個体を死後計測したところ、体長 1m29cm、尾の長さは 0.5m で、約 0.04m の(鰭状(ひれじょう))頂部を含み、尾の高さ 0.165m、頭部の長さ 0.19m、後頭部の幅 0.25m、頭部の縁(へ り)は異常に大きい口でほとんど占められていて、重さは 24kg あった。」(拙訳)(※1855 年は誤植で、正しくは 1859 年。)

1902 年 5 月 27 日の同博物館会報(14)にも、「この両生類は 1859 年 11 月 11 日に入り、1897 年 6 月 15 日まで生きていた」と記されている。

 

 

1925 年発刊の『動物の寿命(15)という書物に、「日本のオオサンショウウオのひとつがパリの博物館で 43 年生きた例があり、もう一匹はオランダで 52 年生きた」とある。だが、フランス国立図書館に収蔵されているパリ自然史博物館の資料を見渡す限り、1925 年以前に同館が入手した生きた個体はこの 1859 年の1匹のみであり、上記の通り、それは 1897 年 6 月に死んでいるので、飼育記録としては 38 年間弱である。恐らく誤植の「1855 年」から起算した誤りか。確かなことは詳らかではない。

 

 

1895 年 2 月 28 日付の『ル・シュニル Le Chenil』誌(16)によれば、「パリの順化園Jardin d’Acclimatation(パリ、ブローニュの森にある動物園)は 2 匹(17)の日本のオオサンショウウオを受け取ったところだ」とあるので、パリ自然史博物館以外でもさらに 2 匹の生きたオオサンショウウオを当時パリで観ることができたということになる。

 

 

1895 年 2 月 28 日『ル・シュニル』誌

 

 

日本のオオサンショウウオは、パリとほぼ同じ時期の 1860 年(4 月以前)に、ロンドン、リージェンツ・パークにある動物学協会(動物学会)の公園 ZoologicalSociety’s Gardens でも、生きたものが一般公開されている。(画像)1860 年 4 月7 日付『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ The Illustrated London News』誌によると、このオオサンショウウオ Great Salamander of Japan は「タンユウ艦ship Tung Yu のテーラー艦長 Captain Taylor が日本の領土の、ある港で約 2 年前にやっと手に入れ、以来彼の船の上で木桶に入れて飼育されていた。主に生きたウナギ living eels が餌として与えられていた。数日前に動物学協会(動物学会)の所有するところとなり、現在、リージェンツ・パークの南側にある爬虫類飼育場Reptile House に置かれている。(…)サンショウウオの長さは 2 フィート 9 インチ(83.82cm)かそこらである」(拙訳)と書かれている。

 

 

1860 年 4 月 7 日『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』誌

 

 

 

 

 

 

 

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(1)  Charles de Meixmoron de Dombasle, « Réponse du président au récipiendaire M. Emile Gallé »,académie de Stanislas, séancedu 17 mai 1900, éd. Messene, 1999.

「夕べになると、あなたは家族の食卓で、多くの若者の好奇心を虜にした挿画入りの本、『マガザン・ピトレスク』のページをめくりましたが、この雑誌と同じようにあなたがとても好きだったのは、あなたがその弟子だと言う、我らがグランヴィルの作品、すなわち、様々な自然史の集積とも言うべき『動く花々Les fleurs animées』でした。」とある。

(2) 『アール・ヌーヴォー ― ガレとラリックの煌き』(平凡社別冊太陽、2006 年)所収、拙稿「ガレとシーボルト」(118-127 頁)に詳解。
(3)   前掲書所収拙稿、122 頁。
(4) 『シーボルトと日本』図録(1988 年京都国立博物館他)所収「シーボルト事件年表」の1826 年 3 月の欄(198-199 頁)に、「彼(湊長安)の骨折で、たくさんの山の植物と一匹の珍しいサンショウウオを手に入れた」旨が記されている。シーボルトは(恐らく同じ三重県内で)もう 1 匹入手しており、長崎の出島を発ったときには 2 匹(恐らく 30cm と70cm 程度か)のオオサンショウウオがいた。シーボルトが出島を発ったのは 1829 年 12月。1 匹は途上で死に、生きてオランダへ到着したのは 1 匹のみであった。オランダのアルティス動物園にはシーボルト経由の個体が液浸標本で遺されているようだ。Cf. NPO 法人日本ハンザキ研究所会誌『あんこう』(第 6 号、2011 年、11-12 頁)所収、田口勇輝「シーボルトのハンザキを求めてオランダへ」参照。
(5)  アルティス動物園で飼育された 2 匹のオオサンショウウオが双方ともに 52 年生きて、「最も長生きした両生類 Oldest amphibian (oldest salamander)」としてギネス記録に認定されている。1 匹は 1881 年に死んだ当該個体で、2 匹目は 1903 年に同動物園に届き、1955 年まで生きていた。

(6)   Journal des débats politiques et littéraires, 19 Novembre 1859.
(7)   オランダ領東インドは、オランダ領東インド諸島(オランダ語:Nederlands-Indië フランス語:les Indes orientales néerlandaises)のことで、オランダが 1800 年‐1949 年の間、宗主国として支配した植民地国家。その支配領域は、ほぼ今日のインドネシアにあたる。総督府はバウテンゾルグ(現在のボゴール)にあった。
(8)   ヘルマン・シュレーゲル Hermann Schlegel (1804-1884)はドイツの動物学者。ライデン王立自然史博物館 Rijksmuseum van Natuurlijke Historie の第二代館長を務めた。シーボルト編纂の『Fauna Japonica 』(日本動物誌)をテミンク C. J. Temminck、デ・ハーン W. de Haan らと執筆した。『Fauna du Japon 』は『Fauna Japonica (ファウナ・ヤポニカ)』のフランス語タイトル。

(9)   ポンペが日本で採集してオランダへ送った動物標本については以下の論文に詳述。
『日本医史学雑誌第三十巻四号』(昭和五十九年十月三十日発行)所収、金沢英作・神谷敏郎「ポンペが日本で採集した動物標本について」。
(10) 『デバ』紙とほぼ同じ文面が以下の新聞にも掲載されており、そこには「11 月 11 日」に自然史博物館へ到着したことが付記されている。

Cf. La France Médicale etPharmaceutique, 3 Décembre 1859, No49.
(11)  Annuaire encyclopédique : politique, économie sociale, statistique, administration,sciences, littérature, beaux-arts, agriculture, commerce, industrie / publié par lesdirecteurs de l'Encyclopédie du XIXe siècle -1861 (1859-1871). 1860 年 1 月にパリ自然史博物館の爬虫類飼育場で飼育されていた動物のリストが掲載されている。

(12)  Cf. Muséum d’Histoire Naturelle Guide à la Ménagerie des reptiles, Paris, Laboratoire d’Herpétologie, 1897, p.92.

(13)  Cf. Bulletin du Muséum d’Histoire Naturelle, Année 1897, No6, 29 Juin 1897, p.181.
(14)  Cf. Bulletin du Muséum d’Histoire Naturelle, Année 1902, No5, 27 Mai 1902, p.301.
(15)  Cf. L’Année Biologique, XXXe Année, 3e Série, T.I., 1925-26, Paris Les Presses Universitaires de France, p.366.
(16)  Cf. Le Chenil Le Poulailler et l’Echo de l’Elevage réunis, 28 février 1895.
(17)  1895 年 2 月 28 日付『ル・シュニル』紙より約一ヶ月前の以下の新聞各紙では「パリの順化園は 4 匹のオオサンショウウオを受け取ったところだ」と報じているので、2 匹が死んだ(死んでいた)のかも知れない。詳しくは不明。1895 年 1 月 16 日付『デバ』紙、1月 18 日付『ル・プチ・パリジャン』紙、1 月 19 日付『リュニヴェール L’Univers 』紙、1 月 21 日付『ラントランジジャン L’Intransigeant 』紙。記事の文面は各紙ともほぼ同じ。