美術史家 山根郁信
蘭学をはじめ近代日本の学術形成に甚大な貢献をなしたオランダ商館付医官フランツ・フォン・シーボルト(=ジーボルト)がミュンヘンで歿したのは1866年であり、従って、エミール・ガレがシーボルトと遭った可能性はほとんどない。しかし、日本初の女医とされる「オランダおいね」の父としても日本史上に名高いこのドイツ人と、我国で最もよく知られたフランス人工芸家との間には、日本を介して確かな接点がある。
1829年末に長崎の出島を発って、翌年オランダ、レイデン(=ライデン)に居住したシーボルトは、そこで日本から持ち帰った大量の植物の苗床(ペピニエール)を開いた。そして、その苗床はシーボルトの歿後も、妻のヘレーネ・フォン・ガーゲルンによって引継がれ、1899年頃まで運営されていた。一方、ナンシー中央園芸協会の名誉副会長を努め、フランス国立園芸協会やフランス植物学会の会員でもあったエミール・ガレは、1872年前後からナンシーの自邸庭園用に日本植物の収集を始めており、入手した植物の情報を私的な台帳に詳しく書き残していた。その記録によれば、ガレはシーボルトの苗床から直接、1876年、1882年、1883年、1885年、1887年に日本の植物を購入している。特に1883年には114種類以上もの日本植物がレイデンからガレのもとに届いている。また、1889年パリ万博の折、会場に設えられた日本庭園からも、ハウチワカエデ(カエデ科)を7~8フランで購入したことが判っている。
エミール・ガレと日本美術との出会いはこれよりさらに遡る。日本が初参加した1867年のパリ万博に、ガレ父子はすでに虎と龍の装飾がある「日本のランプ」を出展しており、「日本の猫」の陶器もその傍らに展示されていた。また、この万博で海を渡った大量の日本の文物を、若きエミール・ガレは間違いなく万博会場で目の当たりにしたはずである。その数年後、ガレ自身も日本の工芸品の蒐集を始めており、備前焼などの陶磁器、漆器、竹細工、版画といった品々がガレのコレクションにあった。ガレの日本美術の蒐集と研究は最晩年まで続けられたが、それはひとえに日本文化への深い尊敬と賛美を物語るものだろう。
<エミール・ガレ>
ガレの陶芸やガラス作品には、『北斎漫画』をはじめとする画帳や、伊万里、九谷、京薩摩、備前、平戸などの焼物からさまざまな造形要素が引用・摂取されており、それは図像や主題の選択、表現形式、フォルムの意匠、空間の活用、装飾の質、素材の風合・触覚といった、幅広い範囲に亘っている。しかし、フィリップ・ティエボー(元オルセー美術館主任学芸員)が指摘するように、ガレは皮相な引き写しや模倣を決して行ってはいない。ガレの日本的意匠の作品ひとつひとつが、大胆な配色や思いがけない置換えの妙によって、凡庸なパスティーシュに陥ることなく、想像力に富んだ造形世界を再構築している点を見逃してはならない。さらに、ガレが日本美術から学んだものは、こうした視覚的造形要素だけにとどまらず、自然の捉え方、その原理や作法といった精神的、観念的な領域にも及んでおり、それはガレが晩年に展開した象徴主義的表現においても重要な役割を果たしている。「象徴的装飾」と題した演説のなかでガレは、「自然への愛情はつねに象徴に至るもの」であり、その良いお手本として「日本の芸術家の手になる写生が、ひとえに自然に対する愛情によって、無意識のうちに森や春の歓びや秋の哀れといった真の象徴を表現している」と述べている。日本美術の象徴性に対するガレの深い洞察を示す一節といえよう。ガレの内的宇宙が自然の形態、すなわちファウナとフローラによって象徴的に形象化されるとき、日本美術は水面下で確かな影響を及ぼしていたのである。
さて、1885年3月5日、ガレは同郷の文豪エドモン・ド・ゴンクールにこう書き送っている。
<エドモン・ド・ゴンクール>
「ナンシーの一庭師より、あなた様の庭師のもとへ、私どもの森でとれたダフネ・ジョリボワとユキノハナを、またそれに加えて『ある芸術家の家』の著者のために、最も希有な日本産の低木を一枝(ひとえだ)お届けいたします。マンサクの木Hamamelis arborescent (Siebold) は冬のあらゆる厳しさに立ち向かい、花を咲かせるのです。この愛らしい黄色い蝋細工のような小花は、パリでは1月から3月にかけて咲きますが、趣味よき人の目を少しでも楽しませるのならば、親木から子を増やすことにいたしましょう!」
マンサク(満作、万作、金縷梅)
学名Hamamelis japonica
マンサク科マンサク属の落葉小高木
©KENPEI, 2008
書簡文中の「私どもの森」がナンシー、ガレンヌ通のガレ自邸庭園を指すことは、ガレの孫が1930年に作成した同庭園の植物見取図にマンサクの木が植わっていた場所が示されていることからも明らかである。さらに、当時フランスで「最も稀有」だった日本産マンサクがどこから来たのかは、ガレが遺した台帳の記録から窺い知ることができる。1883年10月、ガレはシーボルトの苗床から2フランでマンサクの苗木を購入している。その苗木は、ガレ邸の庭で恐らくその後も枯れることなく育成し、少なくとも1930年までは毎年花を咲かせていたのだろう。
『日本植物名彙』(中扉)
松村任三編纂、丸善、1884年
書簡文の「Hamamelis arborescent (Siebold)」という呼称、またガレの植物台帳に記された「Hamamelis arborea Sieb.」は、いずれもマンサクの正式なラテン語学名ではない。それは「Hamamelis japonica, Sieb. et Zucc.」といい、シーボルトとミュンヘン大学植物学教授ヨゼフ・ゲルハルト(=ゲアハルト)・ツッカリーニが命名したものである。マンサクの木自体が「最も稀有」であったのだから、学名もまた当時フランスではほとんど流布していなかったのだろう。しかし、その「一枝」をゴンクールに贈った翌年、ガレは偶然手にしたある日本の書物のなかで、その正式学名を目にすることになる。ナンシーの森林学校に留学して来た高島北海から、1886年の秋、ガレは『日本植物名彙』(松村任三編纂、丸善、1884年)を借りており、その90頁に「1066. Hamamelis japonica, Sieb. et Zucc.」(ママ)と、現行学名を見出せる。
日欧さまざまな人物の織りなす東西交流史のなかに、ガレと日本との一際深い縁(えにし)が偲ばれて興味深い。